源の歴史
料亭から130年の伝統。
駅弁業として100年の歴史。
鱒寿司を全国に広めた その軌跡。
江戸時代
旅篭町で旅館と紙屋を営んでいた
旅館の主人で風流人であった源梅山(みなもと・ばいざん)、生業を料理業を中心として吉川屋を営む。また梅山は茶人として、富山の文化交流と発展に寄与しました。
明治初期
1900[明治33年]
1908[明治41年]
「駅弁業 源」の第一歩が始まる
旅館・富山ホテル支店が、富山市に鉄道開通と共に国鉄富山駅構内営業人として、弁当や菓子の製造販売業を認可されました。
この日から、富山駅で駅弁の販売が開始されました。
1910[明治43年]
富山ホテル支店に調理場を併設
1912[明治45年(大正元年)]
「ますのすし」販売開始
~ますのすしにかける想い~
今からおよそ100年前、1912 年(明治45 年)に「ますのすし」を販売開始。創業から4 年後のことでした。この年に富山駅前に旅館と調理場の完成もしました。
当時はまだ、富山の名物といえばあゆずしでした。
“鱒寿司の美味しさを、富山を代表する食に育てたい”という源一族の想いから、
富山駅弁『ますのすし』が誕生しました。
1920[大正9年]
売上の低迷と赤字が続き、駅弁業の廃業も考えた厳しい時代。
弁当、すし、正宗(日本酒)、ビール、果物、パン…華やかに見える、充実した品揃え。しかし、世界恐慌の時代に『贅沢品』とも言えるこれらは、あまり売れなかったようです。
当時のお弁当の価格は1個20銭、いなり寿しは15銭でした。
1931[昭和6年]
9月18日 満州事変。
1932[昭和7年]
当時は「ますのすし」を45銭で販売
現在の価格で約1,350 ~ 1,800 円( 一銭30 ~ 40 円で計算) でした。
この頃はまだ国鉄(現・JR)の列車本数も少なかった為、富山名産やお土産として『ますのすし』は広まっておらず、旅館業と「あゆずし・あんころ・蕎麦饅頭」などの菓子業とで経営を維持している状態でした。
1936[昭和11年]
新調理場が完成。日満産業大博覧会が富山で開催され、折詰の注文が多く寄せられる。
戦前の源の最盛期。
1939[昭和14年]
9月1日:第二次世界大戦が始まる。
1944[昭和19年]
軍隊弁当の急な注文で大忙し。
鱒寿司が富山名産となるまで 源を支えてきた料理
川魚も美味しいと言われていた富山では、漁獲量も豊富で大衆魚であった鮎を漬け込んだ、鮎すしが人気の寿司でした。また、源の前衛である富山ホテル支店でも作られていました。
ますのすし以外でも、あんころやお弁当もたくさん作っていました。寿司よりも、このような菓子や仕出しの料理ばかりで、お寿司が売れるようになるのは、もう少し後になってからのことです。
1945[昭和20 年]
8月15日 第二次世界大戦、終戦。
戦火に耐えながら調理。
富山大空襲があった年。富山駅と源の工場は全焼しましたが、戦時中は鉄工所の炊事場を借りて弁当を調理していました。
リヤカーで弁当やおにぎりを駅前まで搬送していました。
1946[昭和21年]
社団法人国鉄構内営業中央会の会員として、全国組織の一翼となる。
1948[昭和23年]
富山ホテル支店、料理旅館業再開。
1949[昭和24年]
「ますのすし」を戦前のスタイルで販売再開。
ますのすし(一重)110 円、(二重)210 円。
竹林を保護する「ますのすし」
「ますのすし」に欠かせない竹と笹。「源」では孟宗竹という竹を使用しています。
この孟宗竹は非常に繁殖力が強く、竹林の周囲に無秩序に進出して既存の植生を破壊してしまうため、定期的に伐採して手入れされています。
「ますのすし」に使用される竹は竹林の手入れのために伐採した孟宗竹を利用しているため、竹林管理・周辺の環境保全・生態系の保全に貢献しています。
1952[昭和27年]
源が富山県庁の職員食堂を出店。
1957[昭和32年]
ますのすしに並ぶ名産品「ぶりのすし」誕生。
富山といえば鰤。
鰤を使った名産品として有名になった「ぶりのすし」は、1957 年に三代目 源初太郎が考案した源オリジナルの押し寿司です。
初太郎はますのすしを始め、料理研究に情熱を注ぎました。
1959[昭和34年]
1962[昭和37年]
「ますのすし」50周年。
掛紙に紐が主流だった当時、ますのすしを“箱詰”した現在の形状はこの年にうまれました。
この時は「越中神通川ますとりの図」の描かれたパッケージが完成し、箱の形状はそのまま50年間以上引き継がれています。ますのすしを箱に入れる画期的なデザインとアイデアは、大きな反響を呼び、親しまれています。
会社組織を変更し、株式会社源発足。
生活水準の向上に伴い、全国駅弁大会や旅客の中でますのすしが人気を博す。
特に全国駅弁大会では“西の横綱”と呼ばれ、富山名産品・土産物として定着した。
1963[昭和38年]
ますのすしの伝統の味やよさを失わず、合理的に生産する方法を検討し、実行に移した。
藤づるをゴムバンドにし、曲げ物の底とふたを合板にした。
よりたくさんの人に「美味しい」を届ける工夫
パッケージの進化とともに、曲げ物にも様々な工夫がされてきました。
「寿司を詰めて竹で固定する。」簡単そうに見える作業の問題は、多くの天然素材をそのまま使って作られていたことでした。
水分を吸って重くなった木で挟まれた寿司を大量に運ぶのは腰を痛め、藤ずるを素手で縛る作業は、指をはさんだり、繊維で切ってしまったり怪我をしやすかったのです。
研究と試行錯誤の結果、藤蔓はゴムバンドになり、手を傷つけることなく、適度な押しをかけられるようになりました。曲げ物の底板とふたを合板にする事で、軽く持ち運びに適した形の再現に成功したのです。
収縮するゴムバンドが寿司の水分量に合わせて押しをかけ、薄くて丈夫な合板は水分を上手く逃がす。この構造が『良さ』も『味』も変えずに『品質』が向上するきっかけとなりました。
1964[昭和39年]
10月10日~24日:東京オリンピック。
富山市下新本町に本社、調理工場完成移転する。
1965[昭和40年]
中川一政画伯の絵と書をパッケージに。
この、お馴染みのパッケージのますの絵は文化勲章受賞した中川一政画伯の作品です。
当時から、ますのすしをこよなく愛した中川氏は神通川でとれたばかりの生の鱒を用意し、モデルに描いたというエピソードも残っています。贈答品としても人気を呼ぶようになりました。
1966[昭和41年]
高岡市下関町に高岡ステーションビル店オープン。
1968[昭和43年]
高岡市下関町に高岡地下店オープン。
1971[昭和46年]
JR名古屋駅地下街にに名古屋エスカ店オープン。
1972[昭和47年]
富山市下新本町に新社屋完成。旧社屋はますのすし専用工場となる。
ますのすし東京進出(東京上野京成百貨店に店舗開設)。
製造の合理化に着手。ガスの連続炊飯器を導入した。
1974[昭和49年]
ゴム掛け機を導入。特許取得。
1975[昭和50年]
富山市牛島町に新社屋完成移転。旧社屋は下新工場となる。
1976[昭和51年]
富山市上袋に富山インター店オープン。
1977[昭和52年]
源八郎(現会長)が時代とともに進化する調理器具を積極的に取り入れつつ、新技術を開発。
手作業にこだわった「ますのすし」作りを目指す。
1983[昭和58年]
富山市下新本町下新工場地内に本社屋完成移転する。
1984[昭和59年]
富山空港で「ますのすし」販売。
駅弁である「ますのすし」が地元富山で空弁になりました。
1985[昭和60年]
黒部市萩生に黒部インター店オープン。
1987[昭和62年]
富山市新保企業団地(現・オムニパーク)内に本社・700人を収容できるレストハウス、売店、見学コース・工場完成移転する。
富山市桜町マリエとやま1Fに富山マリエ店オープン。
1989[平成元年]
竹ずし、特選ますのすし販売。
1995[平成7年]
愛称を「ますのすし本舗 源」に…
1996[平成8年]
ますのすし伝承館を増築オープン。
1997[平成9年]
北陸自動車道上り徳光パーキングエリアまっとう車遊館に松任車遊館店オープン。
1998[平成10年]
砺波市太郎丸に砺波インター店オープン。
JR高岡駅構内営業開始。
1999[平成11年]
JR富山駅北口にcon・viniオープン。
2000[平成12年]
砺波市太郎丸に砺波インター店オープン。
2002[平成14年]
富山市上飯野にそば・うどん処きん八オープン。
2005[平成17年]
JR金沢駅構内 金沢百番街に金沢百番街店オープン。
2008[平成20年]
創業100周年。
創業100周年を目前とした2005年(平成17年)に発売したのが「ますのいぶしすし」。
新技法によって美味しく燻された鱒の新しい味と今までにない食感。ますのすし100年、これからの100年に向けての新しい挑戦を続けるためにも“進化”を遂げたますのすしとなりました。
2009[平成21年]
ますのすしミュージアムオープン。
見学コース・レストハウス・売店(富山名品物産館)を改築し、リニューアルオープンいたしました。
2010[平成22年]
富山市総曲輪大和富山店地下1Fに富山大和店オープン。
2012[平成24年]
「ますのすし」100周年。
1912 年(明治45 年)から100 年、「ますのすし」は100 周年を迎えました。
100 年もの長い間、「ますのすし」を愛してくださった皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました。今後も源の「ますのすし」を宜しくお願い致します。